創部(1937年)からの歴史

創部時代

1)創部時代

 明治大学フェンシング部は昭和12年4月5日に創立した。創立者は当時法学部学生三上哲夫である。剣道四段の若い学生であった三上が明治大学代表として昭和9年に中華民国、フイリッピンへ、翌年、アメリカへ渡航した。その時のアメリカ遠征体験から、剣道と通してフェンシングの長所を知りカルフォルニア大学で学業と共にこの新しいスポーツを学んだ。「欧州の武士道」ともいうべき活動を思い浮べ帰国してから 明治大学で同僚の福田裕、三田禰兵衛、酒谷修吉、松本政之輔、田崎、加藤らを招集して創立した。他大学は既に慶応大学が昭和9年に、法政大学が10年に、実質的なフェンシング部が出来ていたので、創立当時のわが部は外部から大きな協力を願えたわけであるが、なかでも岩倉具清、近藤天両氏のご助力は忘れてはならないことである。

 初代部長にフランス語の鈴木教授にお願いし、部のマークも創立者の愛称にちなんだ黒い熊「テティーベア」に決め、活動を開始した。これと前後して専大、帝国大学にも部が創られた。初代主将は福田裕、赤塚、黒澤を中心とするグループが活躍した。昭和14年に明治、法政、慶応、専大、帝国大学による五大学対抗フェンシングリーグ戦が開催され、翌15年は明治大学が優勝した。当時は7人の対抗紅白戦で、メンバーは佐藤利男、木村博美、中川常之、藤本統一,恒崎篤司、松本邦雄、相澤達郎であった。手書きの記録は今も残っている。

 各大学が創部を企図した理由のひとつは昭和15年のオリンピックが東京で開催されることが決定していてフェンシングがオリンピック種目であるのが大きな要因であった。こうしてフェンシング界が軌道に乗り始めた時、東京オリンピック中止、太平洋戦争開戦、大戦の激化、それと共に、他の外国スポーツ同様、フェンシングも鳴りを潜めざるを得ず、協会も自然解散となった。

東京オリンピックまで

2)戦後、そして東京オリンピック

 終戦を迎え、フェンシング界の再起を計ったのは三上哲夫で、連合国最高司令部体育局グラハム少佐の許可を得るや直ちに二瓶俊彦、平沼五郎、牧真一、佐野雅之、進藤誠、池内一郎、福田裕(明大)、鍋島直浩の各氏に協力を願い日本フェンシング協会として再発足した。会長に森村義行、副会長に二瓶、森寅雄、松葉徳三郎の各氏、理事長に三上哲夫が就任した。これと時を同じくして、三上をはじめ、諸先輩のご助力により、田嶋正實、永松克敏を中心として、わが部も再発足した。その頃アメリカで活躍された森寅雄氏が技術指導にあたられ、フェンシング界の向上は著しかった。昭和23年にいたると、わが部の第一次黄金時代が到来した。土屋武、中嶋英一、飯田雄久、奈良泰夫らが特に中興の四闘士と云われ、連戦連勝の記録を作り、その他高田、内山、山崎の力強い協力を得ていよいよわが部の実力を偉大なものとした。この黄金時代を更に好調の波に乗せたのが高野、遠藤、笹川、石川、鈴木(正)、森本、富田(典)。次いで秋元、小林(政)、金子(正)、粕谷、三間、折原らで、技術の面でも、部員の数の点でも、他大学の追随を許さなかった時代(昭和26~27年)であった。

 その後数多くの優秀なフェンサーが一度に卒業したが、後を継いだ三谷直二郎は文字通り孤軍奮闘した。また、若旅、小原の時代は後進の育成に重点をおき、次の千葉卓郎の時代に全てをかけた。彼は恵まれた部友の小林(英)、川村、坂本、山口(重)、富田(浩)、横溝で明大フェンシング部を遂に確固たるものとした。

 1955年、昭和30年、OB待望の駿台フエンシングクラブが誕生した。会長に三上をおき、益々発展を続け、明大フェンシングの基盤を完璧と成した。 昭和31年に至り太田、阿部、山本,左野、仁木,伊東(正)、木村幸三と多数の選手を送り出した。わが部の「フェンシンブ小唄」が木村の作詞作曲で生まれ全国のフェンサーに評判となった。次いで綿貫、山口(直)、湯本、楢本、手島(祥)松井、加藤満子、更に鈴木(新)、望月、畠田、高山、佐川、森田の新進気鋭のフェンサーが育った。監督も土屋から小林(政)、飯田とバトンタッチされ、それぞれ明治の伝統の中に世界のフェンシング技術を採り入れ意欲的な指導方針を明らかにした。一方伊藤(義)、奥田、池内から磯貝、井磧、原、小幡、太田(光)、古谷、菊地宏子等へと至り、再び黄金時代を築くべく昭和37年に新喜、石田、宮原、大石の活躍が始まった。飯田監督の5ヵ年計画のもとに、昭和38年種村は朋友手島、伊藤(次)、鈴木(吉)、鏑木、佐藤(千)、堀部英代等の協力を得て、後進を徹底的な技術及び精神的指導を打ち込んだ。続く古田(武)、渋谷、堀もこれを引き継ぎ基礎を固めた。その年は東京オリンピックが開催され、フェンシング界も隆盛を極め。日本チームの監督はOB飯田雄久が率い、コーチにOB千葉卓郎が選ばれ、エペで手島猛が最終予選に勝ち抜き見事日本代表になった。同エペで手島の同期の種村喬行は、最々終予選でポイント差でオリンピック代表をのがした。新喜昭は世界的にも高いレベルのフルーレ種目で最終予選までいったが怪我のため選ばれなかった。

現在(平成19年)まで

3)現在(平成19年)までの歩み

 山口(勝)、小林(隆)、奥寺等により関東リーグ戦で総合優勝し、初の海外遠征を韓国で実現した。昭和40年12/7~21大韓フェンシング協会の招きで遠征。中嶋団長、矢澤副団長、選手14名で大学6校(外国語大、高麗大、延世大、漢陽大、慶煕大朝鮮大)と対戦。レベルは格段の差があったが選手は気を抜かず全力で戦い全勝した。昭和41年、監督は飯田から小林(英)へと引き継がれ、新井主将のもと朋友、見山、津島、野村、西本、稲田、山口(晴)、松丸、浜野、糠田、笹木、北波等の12名の優秀なフェンサーを擁して、関東リーグ2年連続総合優勝を遂げ、再び黄金時代に突入した。次いで倉澤、芝山、山田、佐野、大崎道子もよくまとまり全日本大学対抗戦でエペ団体優勝を果たした。その年に開催されたユニバーシアード東京大会のフェンシング、サーブル日本代表に新井智勝が選ばれ、日本チームは銀メダルを獲得した。伝統あるわが明治大学体育会フェンシング部はその後数々の名選手を輩出した。

 主な成績を上げると、昭和44年は関東学生フェンシング選手権のサーブル個人で熊代克己が優勝。同46年関東リーグでフルーレ優勝、その年の王座決定戦でも優勝、また関東学生対抗戦でエペ団体優勝。昭和48年に始めて開かれたアジアフェンシング大会のサーブル個人で石黒信彦が優勝、次いでフルーレ個人で皆木光弘が準優勝し、明大勢の活躍が目立った。その後も昭和57年に関東学生選手権エペ個人で小野寺俊浩が優勝、翌年も後輩の鈴木慶樹が同種目で優勝し「エペの明治」の伝統を引き継いだ。鈴木は更に翌年も優勝、その勢いで全日本学生選手権の栄冠も獲得した。監督は伊東正佑(S32年卒)が昭和47~48年、次いで新喜昭が昭和49年から9年間努めた。新喜から湯本能信(S33年卒)が昭和58年~62年まで引継いだ。昭和61年に関東リーグ戦が男女同時開催されると女子も全国から高校でならした選手が入部し活躍した。同年、創部50周年を迎え盛大に記念式典が催され、各大学の関係者も多く参加された。戦前、戦後、また昭和30年代、40年代の青春の思い出話に花が咲いた。OBと現役の交流こそ他では味わえない体験である。年号も平成に改められ監督は津島満(S42年卒)が7年間、新井智勝が6年間、山口勝(S41年卒)が4年間、そして平成17年から現監督井原健詞(S44年卒)が就任した。戦績からすると苦難の道を歩んだが、歴代の監督、コーチ、部員はよく耐えて明大フェンシング部の伝統を守った。平成13年には日本フェンシング協会会長に中嶋英一(S25年卒)が就任常務理事に石田勝則(S38年卒 現駿台フェンシングクラブ会長)が就き、フェンシング界の益々の発展に大きく貢献している。現在は石田会長、井原監督、コーチの熱意が現役は勿論、卒業生にも伝わり「1部に復活!」を合言葉に奮闘努力しいる。平成18年の関東リーグ戦で女子のエペが2部優勝。1部入替戦で完勝し、見事1部に昇格した。名門復活間近!である。2007年は三上哲夫が明治大学フェンシング部を創部して70年。幾多の困難を乗り越え、学生時代の楽しかった思い出を胸に刻み、7月1日に祝賀会を本校で開催しました。総勢141名は駆けつけてくれた応援団と共に歌った校歌に思わず涙が出ました。その瞬間から学生にもどった気分になり、大きな声で語り、笑い、お互いにフェンシングを通じた仲間である喜びを味わいました。

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